神社

糸我稲荷神社 ー和歌山県

稲荷の社となれば京都は伏見の稲荷大社をはじめとして佐賀県鹿島市の祐徳稲荷、茨城県笠間市の笠間
稲荷神社、寺系の豊川稲荷等々有名どころに枚挙に暇がないが、ここ糸我稲荷神社は和歌山県有田市、
糸我から須谷周辺の地に鎮座する稲荷神社である。「糸我稲荷神社」はともすると通称で和歌山県神社庁
のHPでは「稲荷神社」、社殿鳥居の扁額には「本朝最初稲荷大神社」と有る

この社が他社と趣きを異にするのは何より<日本で最初に稲荷神が降臨された地所の宮>とされている所
だろう。糸我社由緒に見る「孝徳天皇白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」の白雉3年
が稲荷社の総本山とされる伏見稲荷大社の創建より60年も前とされる事を依拠とし、申すところの倉稲魂神
(うかのみたまのかみ)が日本に初めて降臨された地を本宮(もとみや)として「本朝最初の稲荷の社」を時の
帝に上奏、認可され、時移って山城の国(京都)伏見の地に再び大神降りられた時、糸我の地に先の社が
有る事を鑑み伏見の地を「紀伊郡深草」とされたらしい。

境内、地所は名の有る社に比して決して大きいとは言えないが国道からもそれほど離れていない立地にも
かかわらず静謐な中に凛としたたたずまいを呈した趣き深い社である。隣接して「有田市立 くまの古道歴
史民族資料館」が建つ。

 

一の鳥居をくぐると五本の赤鳥居が拝殿に向かって並び稲荷社の呈を成し境内には樹齢500~600年と
目される3本の楠木が葉を茂らせている。

碑文から本殿に倉稲魂命神、左脇殿に土御祖神、右脇殿に大市姫神といずれも農耕を軸とした土地の安寧
と豊饒を司る神々であり農耕社会となって以降の日本の原初、基本的な信仰社としての成り立ちが感じられる。
余談ではあるが、この有田市、糸我、須谷(すがい)地区周辺は日本のみかんの発祥の地との話しもあるようだ。

先の文にある本宮(もとみや)だが境内から程近い糸我峠の山の尾根、山頂に位置している。御朱印を頂く折
のご神職のお話しによると農耕社会の変遷と居住地域の移動に合わせるかたちで元々高地に有った社殿から
徐々に今の社地に移ってきたのではないかと・・

 

お話しを伺った後、その本宮を目指してみる。程近いと書いたが社殿から徒歩で行けば健脚の人でもおそらく
片道1時間半位は掛かるのではないか、当日は125ccのスクーターでの参拝であったのでそのまま乗って上が
る事にした。

・・が、えらい道である・・。神職が仰るに車(自動車)でも行けるような感じであったし、実際本宮のきわには駐車
スペースも有ったのだが、途中、山道にして絶対すれ違い通行不可の部分が長く(滅多に車など通らないよう
な道ではあるが)運悪く対面した場合かなり困る事になる。その上途中かなり急峻な坂があり昼なお暗い山間
に湿った落ち葉が降り積もっていた事もあって125ccとは言えスクーターでの登坂が苦しく途中から車を降りて
手押しでの登坂となった。
この記事を読んで本宮を訪れようと思われる方は時間に余裕をもっての徒歩、もしくは4WD軽トラでの参拝をお奨めする(笑)
(よく考えてみれば若い頃、人の手伝いで上ったみかん山もこんな感じであった・・)

辿りついた本宮は糸我地区、須谷地区を雄大に見下ろす山頂付近に神々しくその姿を顕わにしている。
神々しくと書いたが別に日本昔ばなしのにぎやかな神々降臨の場面ではない。小さな社だがそれは山頂の
さらに突き出たような地に立地しており極めて陽のあたりが良く静謐な山間のしじまの中で、古代、本当に
この地に神が降臨されたとしても頷ける暖かな時の流れ。屹立した神木や杜に囲まれた涼やかな社地とは
対象を成す不思議な感覚である。

又、本宮までの道程を酷道としたが、道中、中世の茶店を描いた看板なども有り往時には人々の往来も多く
にぎわった峠道であろう事も偲ばれ、反面肩で息する現代人(自分)の不甲斐なさを省みる参拝でもあった。

 

糸我稲荷神社「本朝最初稲荷大神社」:和歌山県 有田市 糸我町中番329番地

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